どうも子供にとって学校は社会の総てである、という思想が
あるようだ。
例えての話、学校でいじめを受けるから、学校へ行くのを
やめて、途中で海や山、公園などへ行って遊んで帰ってきたら、
どうだろう?
それを知った親は、気が狂わんばかりに子供を叱りつける
だろう。
親としては、なんでうちの子は義務教育の学校さえ、行けな
い変わった人間に育ったのか?と、自分自身を恥かしく
思うからだ。
しかし、これは親の見識が不足しているのである。
親自身が、世の中は、いじめ迫害を下に押し付けることに
よって構成されていることを、自覚しているからだ。
従って、親としては、いじめられっこより、いじめる方へなって
欲しいと思っているのだ。
けれども、わが子が自殺に追い込まれるに至って、親自身が
愕然とし、わが子をそこまで弱い子に仕立て上げたことに
忸怩たる後悔の念が湧き上がってくるのである。
それでは、いじめられっこは何故生まれるのか。
親自身が、いじめによって迫害され抑圧されていると、せめて
わが子からは馬鹿にされたくないと、強硬な姿勢を子供に示して、
一言半句でも、親に反抗する言動は拒否するのである。
そこには、自由に意見を述べ合う親子の愛情は生まれない。
世間を網羅しているいじめの構造が家庭内にも、いりこんで
いるからだ。
学校で苛められ、家庭で抑圧されていれば、どこに自分の
居場所をみつけたら良いのか?
自分の居場所を求めて、彼らは自殺するのである。